~博多万能ねぎの軌跡~
フライト野菜の先駆けとして、トップブランドであり続けている博多万能ねぎ。
それは、昭和30年代、筑後川の豊かな水と肥沃な土に恵まれた朝倉町の、数戸の野菜農家から青ねぎ生産が始まりました |
【あさつきが売れるなら、青ねぎも売れる】
昭和51年、ロッキード事件が世間を騒がせたこの年、野菜は大暴落し産地は窮地に立たされていました。
当時、福岡県園芸連東京事務所所長と上京していた朝倉町農協の徳永組合長は東京江戸川区で「あさつき」の価格が100gで400円で販売されている事に仰天します。
その頃、「あさつき」によく似た「朝倉ねぎ」は福岡で100g1束20円で販売されていたのです。
二人は、東京青果の担当者を招き「朝倉ねぎ」を売り込む為の話し合いを何度も行う事で、仲買人が価格の約束をしてくれました。
こうして、昭和51年3月「福岡高級青ねぎ」として関東市場への出荷が実現しました。 |
【捨てられる日々】
しかし、待っていたのはねぎの白い部分を食べ、青い部分を捨てる関東地区の食文化の違いでした。
一向に値がつかず、市場担当者は売れ残ったねぎを肩に担って売ってまわる日々が続きました。
ねぎ生産部会のまとめ役であった森部賢一さん(現在、筑前あさくら農業協同組合 副組合長)は『高級青ねぎ』の名を思い切って『博多万能ねぎ』へ改名してはと提案します。
「生で良し・煮て良し・薬味に良し」の三拍子揃ったキャッチフレーズと「博多」ブームにも乗った絶妙なネーミングでした。
いい名前と農家も乗り気となり、昭和53年1月に徳永組合長の発案で『博多万能ねぎPR隊』
が編成され、試食宣伝会を市場や100店舗以上のスーパーで実施しました。
試食宣伝会は、ねぎ農家の女性たちが朝4時起きで市場に出かけ、「あさつき」や「わけぎ」とどう違うかを万能ねぎを使った料理(味噌汁)で仲買人達に景気よく振る舞いました。
都会に田舎の味をどう美しく食べてもらうかを伝える、心を尽くした試みでした。
品質面でも、市場で箱が開けられる度、荷崩れ・色が変わっていないかと確かめました。
しかし、トラック輸送であった万能ねぎは夏が近づくにつれ、ただただ処分されていくばかりです。 |
【万能ねぎ、空を飛ぶ】
トラック輸送で、35時間かけて関東へ届ける事は、品質保持の限界を超えていました。
ある日の企画会議で、「いっそのこと空の便をつかったら」と提案したのは、女性たちの現場の
声を耳にしていた森部さんでした。
夕方から出荷しても翌朝のセリに間に合いますし、日航(現在のJAL)を利用して鶴のマーク
を1束づつつけ、あさつきに負けない高級イメージを出そうとしたのです。
農家はあっけにとられましたが、徳永組合長はこのアイディアを大いに買い、園芸連所長が日航に粘り強く交渉を続け、昭和53年5月11日午前9時に10ケースの万能ねぎが東京へ空を飛び立ちました。
博多から空を飛んできた新鮮な万能ねぎは評判を呼び、年々売上は伸びていきました。 |
【型破りの万能ねぎ】
昭和56年には、「万能ねぎ懇談会」を開催、農産物が主役のパーティーとしてはマスコミの度肝を抜きました。
昭和57年は、日航の単一貨物としては国内全路線で年間取扱量日本一となり、ラジオCMも始まります。
又、この年は、野菜の大暴落に遭いますが、農協独自の〔最低価格制度〕 で荷を送り続け、農家も耐え、危機を乗り越える事が出来ました。
その後も売上は伸びつづけ、ねぎの出荷量も増えてきた為、ねぎ揃えの作業をお年寄りや主婦に働く場を作りました。
鮮度にも、従来のダンボールから発泡スチロールに変え、鮮度向上を図る等、産地の勢いはとどまりません。
進出してわずか6年目で全国市場を制覇。昭和61年には、第25回農林水産祭で栄えの天皇杯を受賞します。
全国が注目した新しい試みの数々は、あの売れない日々の経験が作り上げた物でした。 |
【本当にいい物を、本当においしい物を】
長年、トップを走り続けた万能ねぎは、農家の寝る間もない収穫と集荷の日々と、日持ちが断然違うという市場のあつい信頼でした。
長年築き上げてきた産地の信頼をこれから先も続ける『万能ねぎ』は、食の安心・安全を常に心がけ、1本1本を何十年と変わらない手作業で仕上げてゆき、お客様へ届けてまいります。 |